祈り

●祈ってます
 庵主は当真理庵の繁栄を毎日祈っております。
 古楽はキリスト教音楽の比重が高いので、真理庵の祈りもキリスト教式になります。祈りの時間中は、真理庵は私設教会に早変わりするわけです。
 祈りの時間は次のとおりです。なお、教会暦では一日の始まりを前日日没からとしていますので、月曜日の晩祷は火曜日の内容、火曜日の晩祷は水曜日の内容…のようになります。土曜日の夜は主日礼拝であり、日曜日の夜は月曜日の晩祷です。教会暦上の祝日もこれに準じます。
平日晩祷(閉店後20分間)
※土曜日の夜は日曜日扱いとなり主日礼拝1です。日曜日の夜は月曜日扱いなので晩祷です。
日曜日主日礼拝(10:30-11:30)
日曜日以外の祝日(の前日)祝日礼拝(閉店後)
※祝日とは教会暦上の祝日です。
 このように、営業時間外に庵主が勝手に祈っているのですが、参加なさりたい方は、晩祷700円、主日礼拝と祝日礼拝は1000円で参加することができます。この参加費は通常の教会でいう献金に相当します。他の教会では、献金はご自由ですと言いながら「タダより高いものはない」で、「払わないのは気が引ける。でも100円なら悪いかしら」「あら、今日は万札しかないわ。おつりもらえないかしら」と余計な気をもんでしまいますが、真理庵の礼拝参加費は一律にこの値段です。必ず払っていただくかわり、これ以外の献金等は一切いただきません。
 この代金には700円相当のドリンクが1つついています(ですので晩祷は実質的に無料です)。礼拝前ないし後にお出しします。司式途中でのドリンクサービスは対応できません。礼拝前に注文してお召し上がりになりながらの礼拝もかまいません。むしろ、カフェインをとりながらの礼拝は神に向き合うのに効果的だと思っております。
 下にありますように当教会は所属信徒という考えを持っておりませんので、礼拝中にあいさつを求めたりすることは一切ありません。代金さえお払いいただければ、自由に出席して自由に退席してください。もっとも司式途中の金銭授受は対応できませんので、礼拝の前後にお願いします。
 最小催行人数は司式者を含めて1。つまり、誰も列席者がいなくても必ずやりますので、予約などせずご自由にご参加ください。臨時にお休みする場合は、おしらせに明記します。

●自由な教会
 上で、私設教会という言葉を使いましたが、政教分離の日本ではすべての教会が私設です。誰が立てようと教会は私設であり、その一方で教義上は「聖なる公同の教会」なのです。当教会は既存のどこの教派にも属さない独自の単立教会です。単立教会というのは一般になじみにくいキリスト教業界用語なので、むしろインディーズ教会というほうがわかりやすいかもしれません。
 教会としての名称は「キリスト真理自由教会」。私はその牧師です。
 そもそも牧師の資格は、その教団内のみで通用するものであり、共通の要件があるわけではありません。私は私の教会の基準によって牧師です。肩書きはその時の気分で大司教、総主教、女教皇、管長、猊下、座下、教祖などいろいろ名乗っておりますが、いずれにせよ教会の仕事上の職名としては牧師ということになります。
 キリスト真理自由教会のポリシーを一言でいうと「教会ひとり」です。教会は出入り自由であるべしという強い信念があるので、所属信徒という考えをいたしません。ハッキリとこの教会に所属していると言い切れるのは牧師である私一人だけであり、ほかの信徒の方は、来たいときだけいらしていただき、信徒と自称したければご自由にどうぞ、イヤになったらご自由にやめてくださってかまわない、というシステムです。そして、これでいいと思っているのです。
 こういう教会のあり方を、既存のキリスト教会はもとより、日本の宗教法人法は想定していません。礼拝施設があって活動があっても、所属信徒がちゃんといないと宗教法人の認可は受けられません(しかも現在の行政の方針は、近隣に一定以上の信徒がいることが認可の必須条件らしいです。電車を乗り継いで礼拝に参加することすら想定していないのです)。が、それはそれでかまいません。宗教法人の認可なんて世俗の税法上の問題でしかありません。宗教法人の認可を受けてるからよい宗教団体であり、認可を受けていなければ怪しいなんてことはないのです。そんなことよりも、自由な教会であるというポリシーを大事にしたいのです。
 特にクリスチャンはウチ/ソト意識が強すぎであり、そのことが大きな問題になっております。某教団のフリー聖餐問題などはその典型です。それだけにいっそう、自由な教会の必要性を感じているのです。
 見ようによっては、内村鑑三先生の無教会の考え方に近いかもしれません。もっとも、本来ノーブランドという意味に過ぎなかった「無印良品」が今はブランドとなっているように、「無教会」と言ってしまうと、内村先生の流れをくむグループとまぎらわしいので、そうは名乗りません。かわりに「教会ひとり」。つまり本来の教会の定義は「2人以上のクリスチャンの集まり」であり1人では教会を形成できないので、「教会ひとり」が「無教会」の意味になるのです。劇団ひとりのパロディーですが、同様の考え方をする人はけっこういて、「教会ひとり」で検索するとさまざまヒットします。この考え方が一定の支持を得られていることのあかしだと思います。

●説教より体感を
 信仰は頭の問題ではなく体の問題だと思っています。そこで、説教よりも典礼を重視します。説教の長さはせいぜい5分程度にして、香を焚き、キャンドルをともし、司祭(私です)は祭服を着用し、聖歌を流し、ともにうたいます。主日礼拝では聖餐をいたします。お受けになりたい方はどなたでも聖餐にあずかることができます。視覚、聴覚、嗅覚、味覚…あらゆる感覚を総動員して神と対話をしてください。

●教会に行けない人が増えている
 教会を設立するにあたっての庵主の強い問題意識は、「最近教会に行けない人が増えている」ということです。当教会はこの問題に積極的に取り組みます。
 日本のクリスチャン人口は0.5パーセントとも言われ、いわば絶滅危惧種。教会はどこもじいさんばあさんばかりで若い人がいない。教会の中には、こういう先細り状況に危機感を抱いて、新来者獲得のうまい手を模索しているところがあるようですが、私に言わせれば、それより前にやることがあるんじゃないのってところです。
 それはずばり「教会難民」「はぐれクリスチャン」問題です。つまり、せっかく洗礼を受けて教会に通い始めても、いろんなつまずきで教会に行けなくなってしまう人が実に多いのです。
 牧師とケンカした、古参信徒とケンカした、教会内恋愛がこじれた、献金が高すぎる、雑用が多すぎる、礼拝がつまんない、説教が偏向している、説教が長すぎる……、まあこのようなさまざまな理由で教会に行けなくなってしまう。くだらない理由かもしれません。身勝手な理由かもしれません。行けなくなったのは本人が悪いのかもしれません。しかし、そんな原因究明、犯人捜しをしているヒマはありません。それは追い追いやるにせよ、理由はともあれ、クリスチャンでありながら、しかも本当は教会に行きたいのに、あなたが教会に行けなくなっている、まずはそれを解決しなければなりません。そのためには所属にかかわらず他教会を訪れることをおすすめします。その選択肢の一つに、ちょっと(かなり?)風変わりな当教会を加えていただければと思います。
 私もいろいろ相談に乗ります。ご相談の過程で、元の教会に戻るもよし、別の教会に移るもよし、真理庵ことキリスト真理自由教会に居着くもよし、神様のおぼしめしのままによい解決ができることと思います。それまでのいわば避難所教会として真理庵を使ってください。

●洗礼
 信徒/非信徒の区別なく、教会への所属という考えも否定しておりますので、本来は洗礼などばかばかしいのですが、キリストにならいて歩む意思を固めるという意味では洗礼というのも有効だと思っております。簡単な面接の上司式いたしますので、ご希望の方はご相談ください。
 また、神学校に入学するなど、世の中には、洗礼が必要資格となる場合がままあります。そういう場合には当教会の名前でご希望の日付と洗礼名で証明書を発行します。「カトリック以外のすべての西方的教会はプロテスタント」というおおざっぱな分類によれば、当教会はプロテスタントということになりますので、「プロテスタント教会の洗礼を受けて×年以上」という資格要件を満たすことでしょう。もっとも、相手方が当教会のようないわば「異端」教会の洗礼を有効な洗礼と認めるかどうかは、大いに疑問ですけど。

●結婚
 庵主の本業は喫茶店の女主人なので、衣装をすべて自前で用意していただくことと、場所を真理庵でしていただけること、しかも上記主日礼拝の中でしていただけることを条件に、結婚の司式をいたします。まあ、もっと華やかなところがいろいろあるでしょうし、おすすめはしませんが、そういう物好きな方には対応いたします。

●祈りの式文
 祈りの式文は次のとおりです。列席なさる方はできればスマートフォンやタブレットなどを持参の上、こちらのページを閲覧しながら祈ってください。当教会にもいくつか端末を用意しております。伝統的な教会の中には、礼拝中にスマホをいじくるのを禁止しているところがあるらしいですが、中学校じゃあるまいし、当教会は逆に、できればご自身のスマホでこの式文を読みながら祈っていただければと思います。

式文

 式文は1959年の日本聖公会の祈祷書に準拠しながら細かいところで手を入れています。現在の日本聖公会はこの式文を使っておりませんし、当教会は日本聖公会とは何らのつながりもありません。聖公会の式文がよくできているのでオマージュをこめて準拠しています。
 引用されている聖書は日本聖書協会の文語訳聖書です。旧約続編は聖公会が1934年に出したものを用いています。
 式文も聖書も集団著作物で発表後50年を経過しているのでこれに関して著作権の侵害はありません。逆にこの式文に関しても当教会は一切の著作権を主張しません。